Producer

プロデューサー

子供の頃から、海外のテレビドラマや特撮番組が大好きで放送業界に飛び込むことになった私は、NHKにディレクターとして採用され、東京の報道局特報部で3年間、大阪のスペシャル番組部などで3年間、ドキュメンタリーや地域情報番組の企画制作に携わり、数多くの番組を生み出してきました。新人時代は、同期のなかでも最も早い全国ネットでのリポートデビューや海外ロケなど、かなり目立った活躍をしていたようです。アナウンサーに転向後も自作自演を含めた番組を多数制作し、フリーになってからは、番組はもちろん舞台やイベントのプロデュースも手がけています。

ディレクターとしてNHKへ

NHKには、アナウンサーではなくディレクターとして採用されました。そして、新人が滅多に行かないという東京の報道局特報部にいきなり配属。報道番組や情報番組などの取材から企画、制作までをこなしていました。その後、大阪放送局に転勤となり、やはりベテランばかりのスペシャル番組部という所に配属、ドキュメンタリーを中心に多くの作品を生み出しました。もともとアメリカやイギリスのテレビドラマ、とりわけSFやミステリーなどが大好きで、高校時代は学校新聞にテレビ評論のコラムを連載、大学時代は海外ドラマをネタにしたミニコミ誌を創刊したり自主制作ビデオなどを撮っていたくらいですから、ディレクター志望は当然というわけです。

あまのじゃくの意外な活躍

生来のあまのじゃくで、とにかく人と違ったことをしたい、という変わり者の性格が奏功したのか、同期のなかでいち早く全国ネットの企画を放送し、海外取材も一番乗りという、自分でも意外なほど順調なスタートを切ります。そんな初めての海外ロケは、韓国の各地に里帰りする在日の方々の日常を密着取材した30分のドキュメンタリー番組でした。カメラマンと二人で東奔西走、北朝鮮との国境に近い街では、軍事目標の橋を無断で撮影したとかで、憲兵に連行されるというハプニングも。人間国宝チ・スンタクさんの青磁の美しさは今も目に焼き付いています。

斜面に作られた登り窯にてチ・スンタクさんと
斜面に作られた登り窯にてチ・スンタクさんと

1989年当時は、取材に制限も多く苦労の連続
1989年当時は、取材に制限も多く苦労の連続

ドキュメンタリーなどを続々と企画制作

海外といえば、インド洋に浮かぶ島国、スリランカでのロケも印象的でした。やはりカメラマンと二人だけの取材行で、なぜかカタコトの日本語しか話せないアシスタントとジャングルの奥地まで分け入ったりと、体を張っての一ヶ月。こちらは「列島ドキュメント・ひびけ心の歌声」として全国放送されました。しかし、私自身が最も苦労したのは「にっぽんズームアップ・ニュータウンが老いていく」という本格的な全国放送のドキュメンタリーです。大阪の千里を舞台に、人も街も歳をとっていく姿を、一年近くかけて追い続けました。なかなか取材に応じてもらえないケースも多々あり、ねばり強く丁寧に交渉することで、少しずつ地域の皆さんの心を開くことに成功しました。「にっぽん出会い旅・いつもさざなみが見える」も代表作のひとつです。水都大阪の街をこれほど美しく撮った紀行番組は他にないと自負しています。

スリランカの小さな村で村人たちと記念撮影
スリランカの小さな村で村人たちと記念撮影

ノースリーブでのジャングルロケは若さゆえ!?
ノースリーブでのジャングルロケは若さゆえ!?

NHKの殻を破る異色の存在として

この他、よしもと新喜劇の世代交代を追いかけた30分のドキュメンタリーや、通りすがりではわからない商店街の魅力を、ノンアポの突撃取材で発掘する「商店街しゃべくり紀行」、その全国版ともいうべき「ふれあい通り」など、それまでNHKでは誰も手がけなかったユニークな視点の番組を、自作自演のスタイルで企画制作しました。これは余談ですが、私はアナウンサーに転向する前の新人の頃から、単に番組を作るだけではなく自らマイクを握り、リポートまでこなしていました。この辺りは、口から生まれた大阪人の出たがり気質のなせる技でしょうか。NHKを退職してからは、番組のみならず、地域のイベントや様々な舞台などのプロデュースも手がけています。